
いわき湯本には石炭化石館があり、常磐炭田の歴史について展示されている。
湯本を語るのに、炭砿の話を避けて通るわけにはいかない。 私は、炭砿閉山後、なお炭砿住宅が並ぶ商店街の一角に生まれた。曾祖父は、宮城県の福田町から、一獲千金を目論んで商売をはじめた“一代成金”であった。 働くだけの祖父と祖母、私の母は長女として、金銭的にも自由に育った。 商売の跡継ぎとして婿に入った私の父は、砿夫の次男。成金の娘と砿夫の息子、小さい頃の私の街には、刺青の腕をまくり上げて、日中から路上で酒を飲む、職を失った人達がまだ何人もいた。 私には、「行ってはいけない場所」や、「話したり見てはいけない人達」がいた。 それは、父の育った世界であって、「何故?」と聞けない私は内にこもり、たまたま学校帰りに路上で見た紙芝居、「聖書」の平等な愛の世界に埋没していく。 小学五年生の時には、厚い聖書を読破しており、六年生の時には、「将来はアッシジの聖フランチェスコのように清貧の中、信仰に生き、人を差別せず、平等に接する人間になるんだ」と、ぼんやりだが信じていた。変わり者の息子は、優等生であった親戚筋から非難され、父を一層苦しめた。 父と世間話はおろか、「おとうさん」と呼んだ記憶もない。私に無事代を渡す役目を持った人だった。 |
![]() 昭和22年に天皇陛下が入坑し、従業員を激励した「湯本第六抗人車抗々口」。同63年に抗口を修復し、周辺を小公園、「六抗園」に |
![]() 石炭化石館内、炭鉱の歴史をたどる体験ゾーン。そこに広がる世界は、いわき湯本の歴史の一コマでもある ![]() |
私が二十歳の時、父が死んだ。悲しくなかった。テキパキと施主として葬儀を取り仕切った。あれほど憎んだ商売家業であったが、当時私は客商売でしか活路を見い出せない仕事人間になりつつあった。
「血だな」と思うと、おかしかった。 翌年の夏の夜、父の新盆の晩、ぼんやりとじゃんがらを見ていた。 「おやじ」と、声に出したとたん、涙があふれ、驚いて庭に隠れた。悲しかったのではない。父に対して申し訳ないことが多すぎて辛かった。 私にとって、「炭砿」という言葉は、あの夏の夜の気持ちに戻すキーワードになっていて、今でも胸がつまる。 だから、石炭化石館は、入り口の化石の部分しか見ていない。その先は、私にとって「禁断の地」だ。 今なお、私には「行ってはいけない場所」がある。 炭砿を知る人は、年々少なくなってきている。身近に炭砿に関わりがある人がいたら、是非話を聞いてください。 (元禄彩雅宿古滝屋 斉藤英明) |