最新号 September 2018

いわき再発見シリーズ12 -群像-いわきの誉れ

2018.9月号 
政治家・実業家 金成 通

  大企業を誘致、あるいは当時、画期的だったコンクリート製の橋梁(りょう)を鮫川に架けるなど、大車輪の活躍を続け、地域発展に努めた政治家、実業家の金成通。その功績を称(たた)える石碑は、彼が過ごした錦町に建つ。
 明治12(1879)年3月、茨城県南中郷村(現北茨城市中郷町)の貧しい農家の次男として生まれた金成は、幼少のころから人一倍、向学心に燃えた少年だった。
 成長するに従い、その心は高まり、親を説得して上京し、商業を学ぶ。その後、錦村(現錦町)の裕福な金成家の養子となり、農業に従事。
 こうした日々の中、「これからの日本は経済も必要になる」と考えて再度上京。経済、統計、簿記などを一心に学び、帰郷後は親類や知人を説得して「磐東銀行」を創立。弱冠26歳の時だった。
 青年実業家として周囲から力量を認められてきた金成は、推されて同44(1911)年、県議会議員選挙に出馬し、当選。2期務めた。
 実業家に戻った金成は、地域産業の発展につなげるため、鮫川、錦、窪田、山田、川部の5カ村に供給していた電力会社の事業を譲り受け、大正8(1919)年には植田水力電気会社を設立、併せて四時川第1、第2発電所を建設した。
 この間、数々の会社発展にも努め、人望を得た金成は、同15(1926)年には錦村の村長、昭和7(1932)~14(1939)年まで貴族院議員として活躍していた。
 議員の傍ら、農民学校の設立などに尽力する一方、大事業とされていた、錦―植田を結ぶ国道6号(当時)に架かる鮫川橋のコンクリート製橋への架け替え工事にも力を発揮した。
 地域の発展を願い、さまざまな分野で活躍してきた彼の最大の功績の一つと言われているのが、「昭和人絹会社」(現クレハ)の誘致だった。
 昭和初期、錦村の産業は米作と養蚕しかなく、いわば“貧しい村”だった。貴族院議員の知り合いから、同社が工場敷地を探していることを知り、誘致活動にほん走。
 同9(1934)年に同社の工場が完成すると、当時、人口3,500人余だった村は、わずか数年間で7,000人と、2倍近くまで増加し、町へと昇格。また、学業を重んじ、奨学金制度、小学校への図書費の寄付なども続けた。地域に尽くし続けた金成は、同26(1951)年の夏8月10日、息を引き取った。享年72歳。(敬称略)

次号予告

10月号は2018年9月下旬発行
★連載:いわき再発見シリーズ12「―群像―いわきの誉れ」/私の博物誌★エッセー:変わる、かわる、体と心がカワル/言葉、つれづれに/うまい話し ほか





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