最新号 November 2018

いわき再発見シリーズ12 -群像-いわきの誉れ

2018.11月号 
政治家・事業家 赤津 庄兵衛

  敷地面積は、ざっと680坪(22.5a)。130台余の車両が駐車できる広さを持つ窪田村(現・勿来町窪田)の大店(おおだな)「升田(ますだ)屋」に生まれ、若くして勿来町長、勿来市長を務めた赤津庄兵衛。
 赤津は、明治28(1895)年2月、先代で、元窪田町長の庄兵衛氏の長男。旧制中学校を卒業後、大正5(1916)年に家督を相続。
 生家は江戸時代から続く老舗で、味噌(みそ)醤油(しょうゆ)の醸造、呉服販売などのほか、棚倉藩御用達の立場もあって、500石の船をも持ち、広範に商売を展開していた。
 家業に精を出す傍ら、伊藤博文によって結成された政党、立憲政友会に属し、窪田村の村会議員を経て、昭和7(1932)年には勿来町長に就任。37歳という若さだった。
 政治家として歩み始めた赤津は、同14(1939)年から同30年まで県議会議員として務める。この間、県商業組合連合会理事長、県信用保証協会理事などを歴任する一方、磐城通運取締役、勿来漁協組合長などにも就く。
 高度成長期を目前にした同31(1956)年の町村合併で勿来市が誕生。家業に専念していた赤津は人柄が見込まれ、急病を発して出馬を断念した前市長の後継者として立候補、激しい戦いの末、同34年、2代目市長の椅子を勝ち取った。
 市長に就任した赤津は、教育、中小企業の育成、漁港の整備などに努めつつ、企業誘致にも力を注ぐ。中でも、十條製紙(現・日本製紙)の大型誘致に際しては、地域全体における工業都市への転化、雇用問題などから大いに手腕を発揮、見事に成し遂げた。
 さらに時代は、赤津本人の力量を試すかのような「一大事案」を下す。
 2期目の同37年に制定された、新産都市促進法に伴う合併問題だ。2年後の同39年に常磐・郡山地区が新産都市の指定を受けたことで赤津は、政治家としての“集大成”となる「大いわき」誕生のため奔走する。
 歴史も文化も異なる近隣14の市町村。対等合併までの道のりは厳しく、紛糾が常態化したが赤津はこれらに対し冷静に耳を傾け、市長職務代理執行者として同41年10月の発足に導いた。
 いわきの“生みの親”でもあった赤津は同56年9月、死去。享年86歳だった。(敬称略)

次号予告

12月号は2018年11月下旬発行
★連載:いわき再発見シリーズ12「―群像―いわきの誉れ」/私の博物誌★エッセー:変わる、かわる、体と心がカワル/言葉、つれづれに/うまい話し ほか





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波光