-群像- いわきの誉れ「石炭の父 片寄平蔵」

幕府の御用商人にも その最期は病死?斬殺? 

片寄平蔵の胸像=市石炭化石館「ほるる」

 片寄平蔵は文化10(1813)年、笠間藩領、石城郡大森村(現・四倉町大森)に生まれた。
 叔父・片寄利兵衛の養子となり、同藩御用達の材木商として、江戸の商人、明石屋渡辺治右衛門のもとを訪れていた折、「黒船」に遭遇。
 当時は、200年以上も鎖国を貫いた日本が、開国へと転換していく激動の時代。
 明石屋から、「黒船」の動力が石炭と教えられた平蔵は、石炭を探して郷里・いわきの山、川を歩き回る。 当時、石炭は「クンノンコウ」として知られ、一部燃料としても使用されていたが、その重要性を察知、商売に結びつけた手腕こそ、平蔵の特異な〝才能〟だった。
 安政2(1855)年、友人の高崎今蔵と、白水、弥勒(みろく)沢で石炭の露頭を発見すると、江名や中之作港から江戸に運び、明石屋がその販売を担った。同4(1857)年には、石炭を乾溜(かんりゅう)してコールタールの製造に成功、黒船用に300樽(たる)を作ったとも言われる。
 その翌年、江戸幕府が軍艦操練所を設けるに当たり、平蔵は3000俵の石炭を上納。幕府の御用商人になり、いわきの採炭事業はますます活況を呈していく。
 さらに、同6(1859)年、横浜港が開港されると、明石屋と共同で、石炭の貿易商を開業。石炭、コールタールのほか、いわきの特産品なども取り扱い、販路を開拓。

わずか5年で大事業

 横浜一の商店として、同地区の発展にも尽力したことから、地元の実業家らが後に、同市、野毛山に「片寄神社」を建立し、平蔵を祀(まつ)ったとも言われる( 残念ながら現在は、同神社は存在せず、場所も特定されていない)。
 こうして、平蔵ら貿易商が成功を収める一方で、物価が高騰し、下級武士らの生活が困窮する状況もあった。また、開国派と攘夷派の対立も激しさを増し、万延元(1860)年、桜田門外の変が起きる。
 平蔵は同年、笠間藩主、牧野越中守の支援を受け、仁井田浦に港を築く計画を立てるが、8月3日、48歳で生涯を閉じた。
 その最期は、江戸の牧野公屋敷で病死したとも、攘夷派の水戸天狗党の浪士に斬殺(ざんさつ)されたとも伝わる。
 石炭発見からわずか5年で、いわき、横浜両市にとっての大事業を成し遂げ、逝(い)った平蔵。確証のある資料も少なく、不透明な部分が多いことが惜しまれる。 (敬称略)

 

常磐炭田の開発百年を記念して建てられた頌しょうとく徳碑(内郷白水町地内)。設置のQR コードを携帯電話などで読み込むと、解説や動画を見ることができる。

片寄平蔵略歴

 1813年2月15日、四倉町大森に生まれた平蔵は、弥勒沢で石炭の露頭を発見、常磐炭田の礎を築き、「石炭の父」と呼ばれる。
 商才があり、材木商から石炭事業に転じてからは、貿易商として、いわきの遠野和紙、シイタケなども販売した。生地の笠間藩、炭鉱がある湯長谷藩など、いわき各地区の発展のほか、貿易商を開いた横浜のまちづくりにも貢献した。