-群像- いわきの誉れ「江筋開墾を指揮 澤村勘兵衛勝為、三森治右衛門光豊」

-群像- いわきの誉れ「江筋開墾を指揮 澤村勘兵衛勝為、三森治右衛門光豊」

和尚の返歌から着想 灌漑、平藩の石高安定にも 

勘兵衛を祀る澤村神社=平下神谷

 江戸時代、大事業の末に完成した小川江筋は、夏井川を水源に全長30キロ。平~四倉地区の水田を潤し、現在は、平浄水場の水源として飲料水にも利用されている。
 同江筋を築いた澤村勘兵衛勝為は、慶長18(1613)年、現在の千葉県君津郡佐貫町に生まれた。
 10歳の時、平に移り、兄の甚五衛門とともに磐城平藩主、内藤忠興に仕え、寛永10(1634)年、郡奉行に就任。
 慶安三(1650)年、大干ばつに見舞われた領内を検分した折、百姓の苦しみを目の当たりにした勘兵衛は、平泉崎、光明寺の歓順和尚との会話から、江筋の着想を得たと言われる。
 勘兵衛が、「名には似ぬ 泉崎にて水に飢へ 実ならぬ 村の寺の淋しさ」と、口吟(くぎん)すると、歓順が、「稲の為 江水引かれよ 関場より 用ゆる水は山のふもとを」と、返歌。
 翌年、歌の通り、下小川関場から山麓(さんろく)を辿(たど)り、平窪、神谷、四倉町戸田に至る同江筋に着工すると、多くの百姓らが喜んで加わる。大岩をくり抜き、砂地に粘土を敷くなどの難工事を経て、3年3カ月(最終的には32年とも言われる)をかけ完成した。
 だが勘兵衛は、明暦元(1655)年7月14日、43歳で、無実の罪を着せられ切腹。理由は、功績を妬(ねた)んだ者の陰謀と伝わる。
 勘兵衛の後を継いだのが、その指揮下で従事していた23歳年下の三森治右衛門光豊だった。
 治右衛門は寛永13(1636) 年、平鎌田に生まれ、16歳で内藤公に仕えた。
 延宝2年(1674) 年、39歳の時、平窪から沼ノ内に抜ける愛谷江筋の藩命を受け、開墾に着手。6年の歳月をかけ、18キロに及ぶ同江筋を完成させた。
 あいにく、詳細な記録は残されていないが、治右衛門は元禄7(1694)年、58歳で亡くなっている。
 小川江筋の灌漑(かんがい)面積は当時1200、愛谷江筋は500ヘクタール。二つの江筋は、多くの百姓を救い、磐城平藩の石高安定に大いに貢献した。
 勘兵衛の御霊を祀(まつ)る、平下神谷、澤村神社は、明治9(1876)年、住民らが許可を得て創建。
 一方、治右衛門を祀る、平山崎、水守神社は、昭和26(1951)年に建てられ、同30(1955)年、社殿を改築した。
 いずれも、それぞれの江筋を渡った山の上に鎮座している。

 

水守神社から大越方面を望む。もうじき、愛谷江筋に水が引かれ、一面の水田を潤す。

澤村勘兵衛、三森治右衛門略歴

 勘兵衛は小川江筋掘削時、大量発生した蛇の霊を弔うため、平上平窪に蛇塚を築き、利安寺を建立。勘兵衛の墓は同寺に作られ、その一周忌、追善供養として踊られたのが「じゃんがら念仏踊り」の始まりとされる。
 勘兵衛の後継者、治右衛門は、歓順和尚が全幅の信頼を置いたとする逸話などから、工事を無事完成に導いた人徳、統率力の持ち主だったと考えられている。