-群像- いわきの誉れ「政治家・実業家 白井遠平」

今につながる礎築く 原動力は郷土発展の願い 

白井遠平=平、小太郎町公園

 殖産興業、富国強兵のスローガンの下、新政府が近代化を推し進めた、明治・大正期。この〝黎明期〟において、いわきの政治・経済を力強くけん引、炭鉱開発、常磐線敷設など、今につながる礎を築いたのが、白井遠平だ。
 遠平は弘化3(1846)年、現在の栃木県真岡市に生まれた。幼名は佐藤常松。11歳で小川町の白井家に一家養子に入り、15で元服し、遠平を名乗った。
 当時から才能を認められ、小名浜代官所の名主代勤を務めると、みるみる頭角を現し、35歳で福島県議会議員、40歳で同副議長に選出。いわき-郡山間を結ぶ磐城街道(現・国道49号の一部)、背峯街道(現・県道14号いわき石川線)改修などの実績を残した。
 その後、菊多・磐前・磐城三郡の郡長になり、養蚕、漁業の振興に努めたほか、平電話局の早期開通を実現。
 明治23(1890)年、国会が開設されると、第1回総選挙で当選。議会では、政府の軍事拡張を支持、鉄道、船舶、橋りょう建設のための製鋼所設置を熱弁、殖産興業の主張を繰り広げた。
 その後、第2回総選挙に落選、国会を後にした遠平は、実業家としてその手腕を発揮することになる。
 同24(1891)年、「朝野新聞」に寄せた「常磐鉄道の急務を論ず」は、特筆。日本の発展における常磐地方の石炭の重要性を訴えた同記事は、世論を喚起、渋沢栄一、浅野総一郎、安田善一郎ら一流の財界人を動かし、いわきの炭鉱開発、鉄道建設を促進させた。
 遠平は、常磐・入山・好間炭礦の開発・経営の一方、日本海岸線(現・常磐線)、平郡線(同・磐越東線)を開通させ、いわき炭を京浜地帯へ陸送する道を開くと、小名浜の開港促進、遠洋漁業会社の設立、果ては磐城銀行を創業し、金融資本を掌握した。
 こうして、次々と起業した原動力は、郷土発展への願いそのものだったと言える。
 常磐線の早期開設のために、自ら立ち上げた「常磐炭礦鉄道会社」を「日本鉄道会社」に無償譲渡し、炭鉱の複数開発に激怒した浅野に対しては、「営利ではなく、郷土の開発が目的」と、涙ながらに許しを求めたという。
 第19代内閣総理大臣・原敬との親交も厚く、大正4(1915)年、70歳にして政界に返り咲いた。子宝にも恵まれ、子息らに事業を委ねると、昭和2(1927)年、82歳の天寿を全うした。

 

遠平が開発、運営した好間炭礦の桟橋と積込場=明治末期、青木昭治氏撮影

白井遠平略歴(こぼれ話)

 東京大学、安田記念講堂のエントランス部分には、四倉町玉山地区で採掘されていた「日の出砂岩石」が豊富に使用されている。
 これは、同講堂の建設当時、文京区に居を構えていた白井遠平の申し出で実現したという。
 中央の名だたる実業家らとの親交の深さ、人望の厚さもさることながら、遠平の、故郷いわきの産業発展への思いがうかがえる逸話だ。