-群像- いわきの誉れ「政治家 小野晋平」

父子二代で築港に汗 予算復活を求め〝大陳情〟 

小野晋平= 小名浜字栄町

 東港地区に建設が進む「国際物流ターミナル」と、これにつながる「小名浜マリンブリッジ」―。〝国際港〟として発展を続ける小名浜港だが、その歴史には、住民らの切なる願いと情熱の物語があった。
 古くから漁港としてにぎわいをみせた同港は、江戸〜明治時代、石炭の積み出し港として栄え、明治30(1897)年、常磐線上野―平間の開通で、その役割を鉄道に取って代わられると、衰退の一途をたどった。
 こうした状況下、いわきの経済、産業発展に尽力した政治家・白井遠平(2016年7月号掲載)は、常磐線の敷設を実現後、「福島県同志に告ぐ」とした提言の中で、「年間取扱貨物量300万トンの規模の小名浜築港計画」の大構想を発表。
 これに多くの住民らが刺激を受け、再開発の機運が高まる。この運動で中心的な役割を担ったのが、酒造屋「清水屋」に生まれ、小名浜町長などを務めた小野賢司だった。
 晋平は同18(1885)年、賢司の子として生まれ、小名浜町会議員、同町長、県会議員などを歴任。父・賢司の志を継ぎ、その生涯を同港の整備に捧ささげた。
 晋平らの活動が結実したのは昭和2(1927)年、同港が国の「重要港湾」指定を受け、同4(1929)年5月、第1期計画の起工式が盛大に行われた。
 誰もが同港の発展を確信したが、その矢先の同年7月、浜口雄幸内閣の緊縮財政で、同計画の予算は大幅削減。
 これは、事実上の工事中止に等しく、同港建設に向けられた住民らの情熱は、大陳情運動へと発展。同月16日、東京、代々木ヶ原(現・代々木公園)に、「白だすき」と「白はちまき」を身に着けた217人が集結した。
 晋平はこの「白だすき隊」の総かつ責任者を務めた。当時、こうした集団での陳情行動は、反政府運動として捕らえられる危険性があったという。晋平をはじめ「白だすき隊」は、身を挺ていして予算の復活を訴え、結果として同年9月、ほぼ当初の予算通りに工事が着工された。
 晋平はほかにも、魚市場の新設、日本水素工業(日本化成を経て、2018年三菱ケミカルに吸収合併)小名浜工場の誘致など、多くの実績を残し、同18(1943)年、57歳で亡くなった。
 同港を見渡す小名浜字栄町の一角には、賢司、晋平親子の顕彰碑と、晋平の胸像が並び、富ヶ浦公園には、白だすき隊の記念塔が建てられ、その功績を今に伝えている。

 

小名浜字観音作、富ヶ浦公園に建つ「白襷(だすき)隊記念塔」

小野晋平略歴(こぼれ話)

 江名、中之作の中間に位置する「折戸」地区は、明治〜昭和期の漁業振興に伴う人口増などを受け、昭和10年代、埋め立て工事で宅地化された。
 同事業は、国や県から予算を受けることが難しく、晋平の個人事業として遂行されたという。ほかにも、江名「江ノ浦」地区など、晋平とその子、義一の親子2代で、およそ6万6千平方メートル(2万坪)の造成が行われた。