-群像- いわきの誉れ「経済学者 櫛田民蔵」

マルクス研究の先駆者 社会運動家に思想的影響も 

1922年ベルリン留学時の櫛田民蔵= 社会主義協会出版局『櫛田民蔵全集第一巻』から

 明治から大正、昭和初期にかけては「大正デモクラシー」と呼ばれ、日本が民主主義へと政治的な変革を遂げた時期。
 明治維新を遂げた薩摩、長州らの藩閥政治に代わり、護憲を主張する政党政治が出現する一方、民主主義や社会、共産主義などの政治論争が活発化、労働者ら無産階級が社会運動、普選運動を繰り広げた。
 折から、ロシア革命で史上初の社会主義国家が誕生すると、国内では1925(大正14)年、普通選挙法と合わせ、治安維持法が成立。主に共産主義者らの思想弾圧が始まった。
 こうした社会背景の中、1885(明治18)年、小川町に生まれた櫛田民蔵は、マルクス経済学研究の先駆者の一人として、多くの功績を残し、社会運動家らに思想的影響を与えた。
 幼少のころの民蔵は、頭脳明晰(めいせき)だったが、わんぱくで、大人から叱責(しっせき)されることも多かったという。
 磐城中学校、仙台、東北学院を経て、東京都神田、錦城中学に編入。卒業後は帰郷して百姓になる約束が、東京外国語学校(現・東京外語大学)へ進学、さらに京都帝国大学(同・京都大学)、東京帝国大学(同・東京大学)大学院と、学問の道にまい進。
 京大時代、マルクス経済学の第一人者、河上肇に師事したことから同研究を開始。東大大学院修了後、大阪朝日新聞社の論説記者になるが、主幹に文章を修正されることに耐えきれず、わずか1年で退職した。
 次いで、同志社大学教授、東京帝国大学講師の職に就くが、運営などを不服として、いずれも1年ほどで辞任。
 民蔵の長男、克巳氏は父の性格について「直情で気性が激しい」と、述べており、俗世間に構わず、学問を志向する民蔵の強烈な個性がうかがえる。
 民蔵はその後「大原社会問題研究所」の所員としてヨーロッパに留学、主にドイツ、ベルリンで研究、図書収集に当たった。革命後のソビエト連邦も訪れ、1923(大正12)年、38歳で帰国してからは、次第にその研究が開花していく。
 また、恩師河上からの共産党運動への誘いを断り、その研究を批判する一方、政府に追われた河上をかくまうなど、人間的な側面も見せた。
 晩年は研究に没頭し、1934(昭和9)年、自宅で執筆中、クモ膜下出血に倒れ、帰らぬ人となった。享年49歳だった。

 

昭和52年11月に建立された、櫛田民蔵の顕彰碑=小川中

櫛田民蔵略歴(こぼれ話)

 民蔵の石碑に刻まれた「何事かを為せ、為さざるべからず。生まれたる者は!」は、1910(明治43) 年1月17日、民蔵が25歳、京都大学2年生の時、日記に残した一節。
 この文の前には、日本に社会主義政党ができることを予見し、学問上の準備をしなければならないとする覚悟が記されている。
 同碑の文字は、民蔵の日記から写し取ったもの。